大女将が語る北目町と相崎旅館の歴史

この記事は3代目女将が初代、2代目から聞いた話と、実際に体験した事を記事にまとめたものです。

相崎旅館は初代相崎安五郎が岩出山から仙台に来て、明治元年に始めた商売でした。

お嫁さんは岩出山の勘定奉行の娘で、’くみ’と言い、ふたりで
商人宿(今で言うビジネスホテル)を開業し、繁盛していたといいます。
建物は当時としては広く、2階建てで20室以上有り、ふすま1枚挟んで隣室がある状態。見ず知らずのお客さん同志が相部屋になることが当たり前で、1部屋に5人も6人も寝泊りしていました。建物には特に入口など無く、どこからでも出入りできる作りでしたが、’
しとみ戸’という泥棒の入れない戸を使ってました。

旅装は
手っ甲脚絆わらじ履きで、宿に着くとわらじを脱いでタライに入れた水で足を洗い客室に入り、時代劇に出てくる宿屋そのものだったそうです。明治時代は北目町は奥州街道沿い、(…長町-田町-荒町-上染師町-北目町-柳町-南町-国分町…)今で言うメインストリートで明治初年に劇場が出来、芝居撃剣会、手妻(手品)、講談、落語などレジャー街として大賑わいだったそうです。

客層はと言いますと、明治の初め頃は知りませんが、大正から昭和初期には、サーカス団、
ヘビ屋(マムシの生き血を飲ませる商売で、私も飲んだことがあります)、テキヤ、富山の薬売り(すごく大きな風呂敷を背負っていました)、反物屋(琉球から来てお金持ちを相手の商売をしていました)。テキヤさんは、私の子供たちに、こずかいを与え、当たりくじを渡してサクラをさせていたのを今でも覚えております。

私がここに嫁いできたのは、昭和7年で、建物は創業当時のもので、
料金は70銭、水は井戸水、くみ上げる為ポンプの部分はよその2倍から3倍という大きな物でしたので非常に大変でした。当時は看板と言うと’行灯’で初代の安五郎おじいさんは字が上手で諸国商人定宿、千客万来宝客如山、などと書いた行灯を吊るしていました。
戦時中は茂庭に避難して茂庭から仙台の空を眺めていたものでした。しかし
空から降るような焼夷弾を避け切れる筈も無く、約80年間もの間びくともしなかった相崎旅館も灰になってしまいました。

その後昭和22年に再建されて平屋の建物になりました。その頃は裏に蔵が有り、蔵の中には商いが思うように行かず出かけたまま戻らずにお金を払えずに残していった荷物が沢山入っておりました。その時はお父さん(3代目善太郎)がもうけたら払えば良いのに気の毒にと、こちらの胸が締め付けられる思いだ。とつぶやいたのを覚えています。
その後に4代目が現在の旅館を立てて現在に至ります。


TBCジャーナル 読売新聞
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